風水の歴史

風水の歴史

風水には陰陽五行や易など、中国古来の思想がふんだんに盛り込まれています。

 

風水を学ぶことは中国の古代の思想を学ぶことでもあり、現代の華僑たちの成功に学ぶものでもあります。

 

風水という中国古来の開運法に効果があるのかは、風水都市である香港や台湾、世界中の華僑たちの経済的成功と中国本土を見比べれば一目瞭然です。

 

社会主義の道を歩んだ中国では、1960年代に始まった文化大革命によって神仏の信仰や占術などの迷信じみたことは一切排除されてしまいました。

 

しかし、外国の領土とされており文化大革命の影響を受けなかった香港や台湾は、特に大きな産業も資源もない小さな地域であるにもかかわらず経済的成長を続け、目覚ましい発展を遂げました。

 

もちろん、香港や台湾の人々全員が風水などの開運法を実践していたとはいいませんが、運命をより良い方向へ動かしていこう、運を切り開いていこうという高い意識と向上心、努力する気持ちと実行力をもつ者だけが成功していったといえるのではないでしょうか。

 

 

 

さて、そもそも風水はいつごろ中国で生まれて、いつごろ日本に入ってきた占術なのでしょうか?

 

風水の起源は黄河文明の頃、「いかに安全で暮らしやすい場所に住むか」という住環境の研究から始まり、その後中国の戦国時代に生まれた五行思想や暦占術、民間道教を取り入れて発達し、後漢頃には風水の基礎のようなものが確立されていきました。

 

そして、晋の時代(三世紀頃)には死者の住居である墳墓をより良い場所に求めることが非常に重要視され、日本にも陰宅風水として伝えられました。

 

ただ、日本ではあまり「風水」という名称は広まらず、飛鳥・奈良時代に同じくして大陸より伝わった奇門遁甲や暦占、天文学とともに、奈良から平安時代に発達した陰陽道の中に融合していったようです。

 

最初の風水ブームはすでに墓地選定法として飛鳥時代に訪れ、平安時代には国家的プロジェクトとして藤原京や平安京などの都の造成のために活かされていたのです。

 

平安京が東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武という四神に守られた四神相応という、風水では理想と考えられる地形になぞらえて作られた都市であるということを聞いたことがある人も多いかと思います。

 

四神とは、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画にも描かれている四方位を守る四柱の獣神で、これらになぞらえた四神相応の地とは、「東に流水があり、西に大きな道があり、南に池やくぼ地があり、北に丘陵がある」という地形のことです。

 

平安京は東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池、北に船岡山があることによって選ばれた四神相応の地であるといえるのです。

 

中国と距離も近く、当時より国交も盛んであった琉球では本土とは異なった経緯で風水が伝わり、陰宅風水=墓相を中心に独自の発展を遂げていきました。

 

本家の中国では明から清の時代にかけて研究がおこなわれ、さまざまな流派に細分化していったのですが、北方の異民族・満州民族が支配した清代やその後の戦争での混乱、社会主義政策と文化大革命などによって中国での風水は徐々に影を潜めていきました。

 

 

風水の歴史

 

 

平安京があった場所はこちら

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